社内講演会「ここまでわかった!国史跡米子城跡」2020/2/8
とりねつにはお城マニアが沢山います。そこで社外から講師を招いて開催する社内講演会の今年の講師に、米子市文化振興課、濵野浩美さまをお迎えして「米子城」についてご講演をいただきました。
濵野さまは神奈川県生まれで中央大学大学院博士課程前期終了後、神奈川県内で埋蔵文化財の発掘調査に従事されていましたが、妻木晩田遺跡や「米子城」などのこの地の埋蔵文化財に惚れ込んでIターンを決意され、平成18年に米子に移住して来られたという経歴の持ち主です。
本日の講演で濱野さまご自身が今までに発掘した遺跡、遺構の数々を現存する古文書や写真などと照合して分かった「米子城は実はすごい城であった」ことを解説していただきました。
講演の前半では、「城」とは本来どういう目的のもので時代とともにどのように推移したかを解説していただきました。
先ず、南北朝時代から戦国時代にかけての乱世には爆発的に「城」が増えたということですが、当初はそれが山そのものを「城」としていた「山城」が中心であったものが、徐々に人工的な防御施設を持つ「山城」に変わってきたということでした。
その後、織田信長の安土城以降、江戸時代にかけては天守の建つ「近世城郭」が築かれることになったそうです。それは織豊期には石垣とその上に瓦葺の礎石建物、天守を持つものが現れはじめ、権威の象徴として見せるための「城」として発展してきたとのことでした。
この「近世城郭」は織田信長の時代(第1段階)、秀吉の時代(第2段階)、秀吉の天下統一の後(第3段階)、徳川家康の時代(第4段階)に分かれていて、それぞれの築城の特徴や背景を日本各地の城や石垣などの写真を交えて解説していただきました。
次に後半では我らが「米子城」がどのような「城」であったのかを解説していただきました。
応仁~文明年間(1467~1487)に山名宗之により砦として飯山に築かれたようですが、「近代城郭」としての「米子城」は天正19年(1591)に吉川広家が、陸海の交通の要地である米子に着目して築城を開始し、月山冨田城を本城に「米子城」を海側の支城とし、秀吉も朝鮮渡海に備えての日本海側の抑えと考えたとのことです。
関ヶ原の戦いの後、吉川氏は「米子城」が完成する前に岩国へ国替えになり、代わって駿府から尾高城に入場した中村一忠が築城を進め完成したとのことでした。米子の城下町も吉川氏が作ったものを残しながら、中村氏が整備を進めてゆきその頃の街並みが見事に今の街並みに合致しているという米子市は貴重な街であることも教わりました。
二つの天守閣、二重の堀の他、城下町の構造や地形を巧みに利用した城内路は防御力が強いことや、軍港と商港の二つの湊を持つことなど「米子城」にはたくさんの魅力があり「続日本100名城公式ガイドブック」の表紙を飾るに相応しい「城」であることが理解できました。
濵野さまは米子城の全容はまだ調査を進めなければ分からないが、何が出てくるかとても楽しみであると語っておられました。
長時間にわたりとても分かり易い解説をしていただき、今までそれほど興味を持たずに見ていた「米子城」を誇りに思える名城であったことを知るご講演をしていただいたことに対し、厚くお礼を申し上げます。
濵野さまがIターンで米子に来ていただき、この地の遺跡を更に詳しく調査をしていただくことを米子市民として大変ありがたく、うれしく思いまます。
濵野さまが今後、益々のご活躍をされることを職員一同で心よりお祈りしています。